水天宮に続く外人坂
水天宮から小樽港や石狩湾の景色を眺めていた時に坂道のようなものを見つけました。
坂道のようなもの、と表現したのは来訪時に積雪があり、崖を登って来た人の足跡があるだけなのかもと思ったからなのです。
この坂道は「外人坂」という名前のついた坂で、雪で判別できなかったのですが123段の石段とそれに続く坂道なのだそうです。
外人坂の詳細につきましては、下記の小樽市ホームページの「おたる坂道散歩」の7話と8話の外人坂をご参照ください。
小樽市のウェブサイト⇒https://www.city.otaru.lg.jp/simin/koho/sakamati/
水天宮が作られたのが1859(安政6)年のことです。その5年前の1854(嘉永6)年 に日米和親条約が結ばれて、いわゆる「鎖国」状態だった日本の国際交流が復活しています。
神社という日本古来の物に国際的な要因、外(国)人が関わっているところが興味深いです。
大正時代の外国人の入国を受け入れていた港の記録が残っていて、長崎や横浜、函館など14港の港の中に小樽港も入っていました。
小樽はやはり国際都市だったんですね。
外人坂の名前の由来は1913年(大正2)年から37年間小樽で生活していた、ドイツ人貿易商とその家族が32年間もこの坂の途中に住んでいたからなのだそうです。
この坂道が水天宮が作られた当初からあったのであれば、60年間ぐらいは無名の坂で、その後外人坂と呼ばれることになったのですね。
命名の由来もなんだか不思議ですね。
小樽の他の坂の名前は
「地獄坂」
(地獄のように勾配がきつい)
「船見坂」
(港から離れている坂だが港や船が見える)
「はげましの坂」
(はげましあって登るほど勾配がきつい)
といった感じで坂を登った人の主観がそのまま名前になっているところが多いような気がするのですが。
外人坂は
(近くに外国人が住んでいる坂)
もしくは(昔外国人が住んでいた坂)
といった、ちょっと状況説明のような名前になっています。石作りの銀行など洋風の建物が建ち並び国際的な小樽でも居住する外国人はそれほど多くなかったのでしょうか。
現在の小樽を訪れる観光客は日本よりも海外からの方が多いかもしれません。
すっかり国際的になった小樽の町を見たら、「外人坂」と命名した時代の人達は驚くかもしれませんね。
私達が道を間違えた雪の坂道にも雪に英語のメッセージが刻まれていました。
水天宮はなぜか海外のイメージが強い場所となりました。
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